桐島聡と東アジア反日武装戦線:連続企業爆破事件の全貌と半世紀の逃亡劇

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2024年1月、日本中を駆け巡ったニュースは、多くの人々に長年未解決だった重大事件の締めくくりを意識させました。「最期は本名で迎えたい」——。神奈川県の病院で一人の老人が自らそう名乗り出たとき、50年近く動かなかった時間が再び動き始めました。

男の名は桐島聡(きりしま・さとし)

1970年代、日本社会に深刻な被害と不安をもたらした「連続企業爆破事件」の実行犯とされ、半世紀にわたり指名手配され続けてきた人物です。2024年の名乗り出は、事件の記憶が薄れつつある現代に、改めてその歴史的事実を突きつける出来事となりました。

なぜ彼は武装闘争に加わったのか。東アジア反日武装戦線とはどのような組織だったのか。そして、どのようにして49年もの間身を隠し続けられたのか。本記事では、判明している事実・記録・報道に基づき、この事件の背景と全容を整理します。

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1. 桐島聡の人物像:エリート学生から「さそり」へ

後に指名手配犯となる桐島聡ですが、出発点は一般的な地方出身の学生でした。彼の生い立ちから過激化に至る過程を追うことで、当時の社会情勢が若者に与えた影響の一端が見えてきます。

平凡な学生時代と転機

桐島は1954年、広島県深安郡(現・福山市)に生まれました。地元の進学校である広島県立尾道北高校を卒業後、上京して明治学院大学法学部に進学しました。当時は学生運動の高揚期を過ぎた直後で、大学に残った活動思想の余波が学生の間に存在していました。

桐島がどの段階で武装闘争思想に傾倒したのか、本人の詳細な証言は残っておらず断定はできません。ただ、大学在学中の出会いや思想サークルへの参加が転機となったという見解は、複数の資料で共通しています。

過激派への傾倒プロセス

◆ 思想的急進化の背景

報道や裁判記録などで確認されている範囲では、桐島は大学の先輩である黒川芳正らとの交流を通じ、東アジアの植民地支配史などを扱う学習会に参加し、歴史認識や社会批判思想を深めていったとされています。

  • 日本の加害の歴史への強い問題意識: 朝鮮半島やアジアに対する日本の戦前の行為を中心とした議論を重ねていたことが記録に残っています。
  • 武力闘争の正当化: 企業や政府を「加害の継続主体」とみなし、武装闘争を肯定する思想が形成されていきました。
  • 組織への参加: こうした思想傾向の延長線上で、後に結成される東アジア反日武装戦線の「さそり」班に加わりました。

20歳前後の若者が武器を手に取るまでに至った精神的変遷の詳細は推測の域を出ませんが、思想的学習の場と武装闘争路線の存在が、大学在学中の桐島の進路に影響を与えたことは確実とされています。

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2. 東アジア反日武装戦線(EAAJAF)とは何か

「東アジア反日武装戦線」は、1970年代半ばに日本で活動した武装組織であり、企業施設を狙った爆弾事件を連続的に実行したことで知られています。当時の日本では日本赤軍や中核派などの新左翼諸派が既存の政治活動を展開していましたが、東アジア反日武装戦線は他の組織と比べても規模が小さく、独自の思想体系と行動手法を持っていました。

組織は、指揮命令系統をもつ階層構造ではなく、思想を共有しつつも比較的独立した複数のグループ(班)で構成されていたとされます。このため、どこか一班が摘発されても組織全体の壊滅には直結しないという体制となっていました。この「分散したセル型の構造」は、後年の武装組織研究でも特徴的な例として言及されることがあります。

組織の特徴:「狼」「大地の牙」「さそり」

裁判記録・供述・声明文などをもとに再構成されている範囲では、東アジア反日武装戦線は目的や役割の異なる3つの班によって構成されていたとされています。

①「狼(おおかみ)」

大道寺将司を中心とする班で、最初に結成されたグループと位置付けられています。企業を「日本の加害の象徴」とみなし、三菱重工爆破事件を含む大規模な企業爆破を主導しました。

②「大地の牙」

齋藤和を中心とする班で、より広範な国家権力の中枢・企業上層部を標的にする構想があったとされ、暗殺計画(俗に「虹作戦」と呼ばれる計画)を検討していた記録が残っています。ただし、この計画は実行には至っていません。

③「さそり」

黒川芳正が中心の班で、比較的小規模ながら建設会社の現場など企業の拠点に対する爆破を繰り返す実行部隊として活動しました。桐島聡が所属していたのがこの班であり、爆発物を現場に搬入・設置する役割を担っていたとみられています。

謎の指南書『腹腹時計』と「市民への偽装」

東アジア反日武装戦線の特徴のひとつが、構成員が社会に溶け込む形で潜伏していた点です。いわゆる「アジト」を拠点とせず、各メンバーが学生や会社員として表向きは日常生活を送りながら、少人数で秘密裏に爆弾作成と犯行計画を進めていました。この手法は、資金調達のための強盗などを行わず、一般の生活の中で活動資金をねん出するという点で既存の武装組織とは性質を異にしていました。

◆ 市民生活に潜むテロリスト

メンバーが通常の市民生活を送ることで、捜査当局は活動実態を把握しにくくなりました。日常と非日常の両立は組織の潜伏性を高め、特定を困難にした一因とされます。ただし、全員が完全に同じ生活様式を取っていたわけではなく、「全メンバーが公務員・会社員として勤務し、毎月の給与から活動資金を出していた」とまで断定できる資料はありません。確認可能な範囲で言えることは、組織全体で銀行強盗などの資金調達手段に依存していなかったという事実です。

また、武装闘争思想の普及や爆弾製造技術の共有の場として、地下出版物『腹腹時計(はらはらどけい)』が作成されました。同書には、武装闘争に関する思想文書だけでなく、入手可能な薬品類を用いた爆弾製造方法や戦術の説明が記載されていました。この文書は危険性の高さから広く問題視され、後年の研究でも東アジア反日武装戦線の活動の象徴として言及されています。ただし、同書が「一人の市民が今日からテロリストになれる」と直接表現したわけではなく、そのように解釈されうる内容を含んでいたという形で理解すべきです。

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3. 連続企業爆破事件の惨劇:1974-1975

東アジア反日武装戦線が攻撃対象としたのは、三菱重工をはじめとする大手企業グループや、海外開発を積極的に進めていたゼネコンなどでした。彼らは企業を「日本の戦前・戦後を通じた加害の象徴」と位置付け、政治思想に基づく犯行声明を連続的に出しました。しかし実際の犯行は、市民も巻き込む無差別的な被害を引き起こし、その思想的主張とは無関係の多くの犠牲者を生み出しました。

1974年8月30日:三菱重工爆破事件

1974年8月30日午後0時45分頃、東京・丸の内の三菱重工業東京本社ビル玄関付近に仕掛けられた時限爆弾が爆発しました。この爆発により多くの犠牲者が発生し、戦後日本で発生した爆弾事件の中でも最大規模の人的被害が生じました。

  • 死者: 8名
  • 重軽傷者: 376名

爆風で割れた窓ガラスが飛散し周辺の歩行者にも被害が及ぶなど、昼休みのオフィス街を直撃する形となりました。声明文では企業の加害性が強調されましたが、犠牲者の大半は一般市民や勤務中の社員であり、事件は社会全体に大きな衝撃と怒りを引き起こしました。

この事件は「狼」班によって実行されましたが、想定を大きく上回る被害規模となったことは、当時の供述や報道でも指摘されています。いずれにしても、三菱重工爆破事件を皮切りに、武装組織による企業爆破事件が連続し、日本社会全体が警戒を強いられる事態となりました。

エスカレートする犯行と「さそり」の活動

三菱重工爆破事件の後も、武装闘争は止まりませんでした。「狼」「大地の牙」「さそり」はそれぞれの方針に沿って同時期に犯行を重ね、複数の企業施設で爆破事件が相次ぎました。

主な被害企業と事件

  • 三井物産・帝人: 1974年、企業の国際展開を象徴的な要素として攻撃対象としたとする声明が発表され、施設爆破が実行された。
  • 大成建設・鹿島建設: ゼネコン関連施設への爆弾攻撃が複数回行われた。
  • 間組(はざまぐみ)同時爆破事件(1975年2月28日): 間組本社ビルと大宮工場がほぼ同時に爆破された事件。全班が関わった合同作戦とされ、東アジア反日武装戦線のピーク期を象徴する事件となった。

桐島聡は、判明している範囲では間組同時爆破事件を含む複数の事件について、爆発物の搬送や現場設置に関与したとされています。この点は、指名手配の対象となった容疑の根拠および関連供述の内容と一致します。一方で、各犯行現場での具体的な行動の全容は詳細な記録が残っておらず、未解明の部分も残されています。

1975年にかけて犯行は逮捕・摘発により急速に収束へ向かいましたが、連続爆破事件は短期間に集中して発生し、一般市民も巻き込まれる深刻な被害をもたらしました。連続企業爆破事件は、思想的背景や政治的声明よりも、実際の犠牲者と無差別被害の大きさで日本社会に記憶されることとなりました。

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4. 桐島聡・49年の逃亡生活と最期

1975年5月19日、東アジア反日武装戦線の主要メンバー7名が警察の摘発により一斉に逮捕されました。この摘発は長期にわたる内偵捜査の結果であり、組織の事実上の壊滅につながりました。しかし、この包囲網から逮捕されず逃れた人物がただ一人存在したと記録されています。それが桐島聡でした。

「内田洋」としての半世紀

逮捕のニュースをテレビで知ったとされる桐島は、わずかな現金を手に姿を消したと複数の証言で語られています。そこから49年間、彼がどのような生活を送っていたのかは捜査資料でも完全には明らかになっていません。しかし、2024年の名乗り出以降の調査により、一定の事実関係が浮かび上がりました。

◆ 潜伏生活について報道で確認されている事実

  • 偽名: 「内田洋(うちだ・ひろし)」と名乗って生活していた。
  • 居場所: 神奈川県藤沢市の工務店・土木関連の事業者で長期間勤務し、住み込みの環境で働いていたとされる。
  • 痕跡の消去: 健康保険証や銀行口座、運転免許証など、公的身分証を持たず、行政や金融機関との接点を避けていた。

これらの行動は、公的記録に基づく追跡を困難にする結果につながり、長期逃亡が成立した要因の一つと指摘されています。

また、潜伏中の人物像については周囲の住民・勤務先関係者の証言が報道で紹介されています。それによれば、桐島は穏やかな性格で、勤務態度はまじめであったという証言もあります。さらに、ロックやブルースなどの音楽を好み、地域の飲食店で常連客と会話をすることがあったという証言も報じられています。ただし、これらは当時を知る人々の回想であり、公式記録ではないため、生活実態の全てを断定する資料にはならないことに注意が必要です。

突然の幕引き:2024年1月

49年にわたる逃亡生活の終わりは、逮捕ではなく病気によって訪れました。2024年1月、桐島とみられる人物が体調不良により路上で倒れ、搬送先の鎌倉市内の病院で入院しました。医療機関での治療の過程で、その人物が末期の胃がんを患っていたことが判明しています。

病状の進行が早く予断を許さない状況となった後、彼は自らの素性について医師に申告し、次の言葉を伝えたと報道されています。

「自分は桐島聡だ。最期は本名で迎えたい」

病院からの通報により警視庁公安部が接触し事情聴取を開始。本人の供述と一致する過去の記録の確認作業と並行して、親族のDNAとの照合が進められました。しかし、本人の名乗り出からわずか数日後の2024年1月29日、彼は病院で70年の生涯を閉じました。

その後、DNA鑑定により身元が正式に確認され、警察庁は2024年2月27日付で指名手配を解除しました。桐島聡は、半世紀近くの潜伏生活ののち、被疑者死亡のまま書類送検される形となりました。

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5. 【資料】メンバーたちのその後

東アジア反日武装戦線のメンバーたちは、1975年の摘発以降、それぞれ異なる経過を辿りました。死刑確定・自死・国外逃亡・服役・出所・潜伏中の病死など、その後の歩みは大きく分岐しています。以下の一覧は、裁判記録・報道・公的発表をもとに整理したものであり、桐島聡の「49年間の国内潜伏・死後に本人確認」という経過が、他の構成員と比べても特異であったことがわかります。

氏名(役割) 所属班 その後の運命・現状
大道寺 将司
(リーダー・創設者)
死刑確定・獄死
三菱重工爆破事件を含む複数事件で死刑が確定。獄中で俳句活動を続けていたと報じられ、2017年に東京拘置所内で多発性骨髄腫により死亡。
大道寺 あや子
(薬剤師・爆弾製造)
国際指名手配中
1977年のダッカ日航機ハイジャック事件での「人質交換要求」を受け超法規的措置により釈放され国外へ渡航。その後も所在は特定されておらず、現在も国際手配扱い。
佐々木 規夫
(実行犯)
国際指名手配中
1975年のクアラルンプール事件(日本赤軍)が原因となった超法規的措置により釈放され国外へ。行方は確認されていないまま国際手配継続。
益永 利明
(現姓:片岡/実行犯)
大地の牙 死刑確定・収監中
死刑判決が確定した後も刑の執行はされておらず、病気療養中と報道されています。現在も東京拘置所に収監中。
齋藤 和
(班リーダー)
大地の牙 逮捕直後に自決
1975年の逮捕直後に青酸カリを服毒して死亡。組織の秘密保持を意図した行動だったかについては諸説あるが、断定できる資料は存在しない。
浴田 由紀子
(支援・実行)
大地の牙 刑期満了・出所
超法規的措置により国外に出た後、ルーマニアで拘束され日本へ送還。懲役20年を服役し、2017年に刑期満了で出所。
黒川 芳正
(班リーダー)
さそり 無期懲役・服役中
「さそり」班の中心人物とされ、無期懲役が確定。現在も服役中。
桐島 聡
(実行犯)
さそり 死亡(書類送検)
49年間にわたる逃亡生活ののち2024年1月に神奈川県内で名乗り出、同年1月29日に病院で死亡。DNA鑑定により本人確認が取れ、被疑者死亡のまま書類送検となった。
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6. おわりに:事件が問いかけるもの

桐島聡の死により、連続企業爆破事件に関する刑事手続き上の捜査は区切りを迎えました。長期逃亡の末に名乗り出た背景や動機について、本人の供述が全て記録されたわけではなく、未解明の部分も残っています。しかし、1970年代の武装闘争と都市型テロの歴史が、2024年という現代に改めて関心を集めたことは事実です。

東アジア反日武装戦線が掲げた思想は、国家や企業の加害を問題化し武力抵抗を正当化する思想でしたが、実際の爆破事件では無関係な市民が多数犠牲となり、社会に深刻な損害を与えました。被害者遺族の苦しみは半世紀以上にわたり続いており、加害行為がもたらした結果は現在も消えていません。

桐島の潜伏生活が長期に及んだ背景には、当時の捜査体制の限界や身元確認手段の問題、本人が意図的に公的記録から距離を置き続けたことなど、複数の要因が指摘されています。一方で「警察の追跡を逃げ切った」「昭和・平成・令和の3つの時代を生き延びた」といった表現は象徴的なものであり、逃亡生活が本人にとって自由や安定を意味していたとは限りません。

2024年の名乗り出と死は、1970年代の武装闘争の時代が終わりを迎えたことを思わせます。しかし、思想的暴力や無差別テロが社会にもたらす危険性、そして被害者を生み出す現実は過去のものではありません。歴史を正確に振り返ることは、同じ悲劇を繰り返さないために重要だといえます。

※ 本記事は公開資料・報道・判明している事実を基に構成しています。事件・関係者に関する情報には新たな判明事項が追加される可能性があります。内容に万が一の誤りがあってはいけませんので、最終的には必ず公式発表・公的資料でご確認ください。

本記事の内容は、執筆時点で入手可能な情報に基づいておりますが、情報が最新でない場合や誤りが含まれる可能性がございます。記事の正確性と最新性には細心の注意を払っておりますが、もし誤った情報や更新が必要な内容がありましたら、ご報告いただけますようご理解いただければ幸いです。

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